昭和四十七年三月十四日


御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ」


 お互いに信心をさせて頂いて、おかげを受けております。果たして私達がどのような信心にならせて頂いたら、人が助かるのだろうかと。世の中には信心がなくて、難儀をしておる人が沢山ある。そういう難儀を見るにつけても、聞くにつけても何とか人が助かることの働きがさせて頂きたい。ためにはどういう信心をさせて頂いたら人が助かるであろうかと、そういう思いをする信者が果たして幾人あるだろうか。
 「人間は人を助けることが出来るということは有難いことではないか」と、「牛やら馬は自分の子供が水におぼれておっても」、人を助けることが出来る。人間としての生をこの世に享けさせてもろうて、そして助けることが出来るものを頂いておりながら、私は助けること、どういう信心をさせて頂いたら人が助かるであろうか、そういう私は思いに耽(ふけ)らせて頂くというか、思いに思うということ、そういう心が私は神心だと思います。
 信心させて頂いて、段々神心が強うなって来る、神心が強うなって来れば強うなって来る程、人の難儀を見ておれない程になる。それを端的に、金の無い人には金を恵んでやり、力の無い人には人を貸してやると言う、そういう助け、そういう意味に於いてのものでなくて、神様のおかげをわからせる。神様のおかげで助かって貰う。それがここで言う本当に人を助けると思うのですよね。
 人が困っておられる時に手をかして上げると、それも助けることですけども、そういうことは、けれども本当の意味に於いて助けるということにはならないですから、どういう信心をさして頂いたら人が助かる程しの信心が出来るであろうかと、思い思わせて頂くと言うこと。そのことを思い出したら想いに耽る程しの心、自分の周囲を眺めれば眺める程、様々なことを聞けば聞く程。
 昨日どなただったでしょうか、人間関係の問題でしたが、そうそう久富勇さんでした。
御親戚の間に一寸した問題があった。そのために姑お母さんと折合いが悪くなって、もうこれまで辛抱しとったけれども辛抱できんから別れるとこう言う、そこで前の【】夫婦が話にいかれた。そして昨日のお届けでした。
 「親先生お話を聞いてみますと、全然問題にならないことが問題になって、そして親子が別れるの別れんのと言うて、結局別れることになりましょうけれども」と言うお届けでした。お話を聞いてみると、問題が問題にならないことを問題にしておる。信心をさして頂いておる者が聞かせて頂いたら、いっちょも問題になることじゃない。どっちかが信心の心になったらそれはすぐにでも解決する。それを、「いえもう今度という今度はがまんが出来ん」と言うてお母さんがずうでござるということ。
 そういう難儀を見るにつけて、どうかしてこの人達に信心をわからせたら、信心になってもらったらという思いはいよいよ募って来ると思うですよね。その場で、「それならこうしなさいああしなさい、そりゃこうじゃないぞ」と言うて聞かせるようなことではでけん。どうでもその人達が問題を問題とせんで済む程しの、生活が出来られるということ、そういうことが助かりだということ、助けるということだと思うです。
 そこでどうでも、その思いに耽るということ、一つのことを想い続けるということ。その思いに耽る程しのことがです。どういうことにならせて頂いたら、人が助かるだろうかという思い、その思いが募ってくる。段々段々募って来る。そしてそこにわからせられることはです。今は本当に力を受けなければならないなあ、本気で自分が、私自身が助からなければならないなということです。じゃないかと思うです。助けるというても色々な助かり方が、ありますね。
 桂先生は「人を助けてわれ助かれ」というように教えておられる。「人を助けて、われ助かれ」と同時に、われが助からなければ、本当に自分が助からねば、人も助かることも出来ない。この二つの生き方、自分が助かりたいし。桂先生のお弟子さんに日支つるという先生が居られた。女の先生、或る難病のために、もう医者や薬ではとても治らないと言われたような病気で、当時「小倉に日を切っておかげを下さる神様がござるげな」と言うので、はじめて小倉の教会にお参りされた。中々熱心なお方であった。お参りするにも今のように乗り物、汽車がないのですから、歩いて参るとやはり一日がかりで参らなければならぬところ、それで十日、十日に、お参りをされた。月に三回参られる。
 そこで、そのお参りに工夫をされる。今は私が申します。「話ばかり聞くばかりが能でない、自分から練り出すがよい」と御教えの中にあります。その練り出すと言うこと。どういう信心させて頂いたら人が助かるかと思い思うということ。思いに耽る程しに、そのことを思う願うということ。そこからその人なりのよい知恵も出て来れば、知恵も出て来るのです。人に話を聞いてもらうために、やはり自分自身がお話を聞かねばなりません。
 最近、和賀心時代を創ると、又は宗教革命とか、といったような言葉を使って、それもあらゆる角度からそのことがわかるように、言うことは、自分がわかったら人に説明出来るように、成程宗教革命と言うのは、そういう意味ですか。和賀心を作ると言うのはそういうものですかとどういう角度からでも、お話しが出来るように御理解頂いておりますのね、近頃は、それでそこにです、はじめて和賀心時代にならなければ人間が幸せにならないか、助からないか、成程宗教持っておる人にでも、その宗教も素晴らしいけど、今合楽で言っておる、それは他の宗教より、金光教自体が革命されなければならないという、根本的なところにふれての、宗教革命、金光教を含めて宗教革命でなければならない。
 それをなぜこれが本当かと言うことを、皆さんに誰か話して下さいと言うて、話しが出来ない程しかお話を頂いていない。どうですか皆さん、本当にそこに難儀な人があるために、その人に本当に、例えて言う、その二つのことからお話しをして下さいと言うと、お話が出来る人が何人出来る人があるでしょうか。もうそのことばかりを最近は話をしておるわけですけど、という位に不熱心です。お互い人を助けるためには、人を助けると、なら、話をさせて頂いて、本当に相手に合点して貰わねばならん。それが他の宗派宗教の人であっても、お道の信者であっても、その信心のない者は尚更のこと、そこのところを説き明かせる位の勉強がされなければいけないと思う。自分の心の中にまとめてみたり一つの文章にしてみたり、どこをどう突かれても、それが説明出来るようにです。ことをここでは頂いておると思うです。はこめこういう表現で人に伝えるなら、人もわかってもらえるだろうというような工夫と言うか、練り出すというか、そういうことの上にも、やはり心を置かなければならない。
 日支つるという先生は、例えばお参りすることに工夫をされた。行き戻りは勿論、車賃はいりませんね、電車で行けばなんでしょうですけど、歩けば一日がかり。そこで工夫されたのがです、日に一合づつのお米を蓄められた。自分の頂く、二合しか食べんならば一合しか食べん、日に、そしてその一合のお米をちゃんとこうためて、その米が一升になった時が丁度十日目だから、一升になるのを楽しみに蓄めてためておる。そういうような繰り返しをされておる。 ある日お参りをされた。桂先生の御取次を頂かれたら、その一升のお米を御神前にお供えされて、日支という方に桂先生が仰っておること、これは御裁伝ということを言われておりますが、そのところはよくわかりません。いわゆる神様から直接お声を頂くというのである。御裁伝があった、『日支つる 真の信心になった』と、神様からお伝えがあったという、『日支つる 真の信心になった』
 そんなら私も今日から一合づつ蓄めちから、十日に一ぺん私参りますと、それが真の信心かというのじゃないのですね、信心は、そこが中々デリケートなところ、それこそ止むに止まれん心に、錬って錬って、どうしたならば、どういう信心をさして頂いたならば、自分自身が助かるであろうかという一生懸命の思いが、そういう工夫になって来た。そのためには、自分が二合食べるのは一合に致しますとして、一合米を蓄められた。その真の信心になられたからと言って、助かられなかった。
 その次には、どう言うておられるか、『日支つる 人を助ける身になれ』とおっしゃった。『人も助けてわれ助かれ』とおっしゃった。『その気になれば千人の神に立ててやろう』ともおっしゃった。それから一生懸命お話をして参られた。日支つる、しまいにはとうとうお道の教師になられた。
 日支つるという先生の周囲に講社が出来た。いわゆる信者さんの集まりが出来た。そしてそこに金光様の話を聞かせてくれと言うて、来る人達が次から次と助かって行った。「人を助けてわれ助かれ」ということですね。「人を助けてわれ助かれ」ということの中に、今のお話の中に、「人を助けてわれ助かれ」ということの中には、そういう言わば練りに錬らせて頂いた信心。どうすれば助かるだろうかと思いに思い、耽らせて頂いて、そして思いつかれたのが、自分の食を半減してでも神様へ心が向けられた。
 食べ放題、寝放題、仕放題のことをして、そして神様に願うといったようなことでは、真の信心にはなれませんね。それこそ好きなタバコくらいは断たせて頂いてでも、好きな酒を断たせて頂いてでも、そこまではする人がありますね。お願いして修行させて頂く、神様にお願いして、「タバコを一ちょ断たせてもらう」と言うてお供えはせん、タバコを止めただけである。酒を止めただけである。 例えば、なら、五十円のタバコを飲みよったのを止めさせて頂いたなら、その五十円が神様にお供えされなければ、何にもならんですよね。自分が辛い思いをするだけです。自分のところに五十円づつ貯まるだけのこと、そげなことではね、神様には通わんです。本当にタバコでも断ってからでもと思うなら、そのタバコをお供えするということなんですから、本当にお供えの形にならなければいけん。
 それが真心。成程日支つるという先生が御裁伝を受けられて、「日支つる真の信心になった」と神様のお伝えがあったということがわかるでしょう。そういう真の信心になって来られた。その日支つるという先生にです。日支つる先生に「人を助ける身になれ」と言われた。人を助けよと、人を助けて我助かれとこう言って下さった。そんならもう自分が助かってござったかというと、自分の病気では未だ依然として助かっておられない。自分が助からなければ人が助けられんということはないその実例であります。そこにはね、真の信心になったという真がなければいけん。神様に向けられるところの止むに止まれん。
 十日に一ぺんお参りされる、そのお参りの工夫が素晴らしい。そういう心、そういう信心で、今度は人を助けるということになられて、そこからどうすれば人が助かるかということになった。そこにはです。日支つるという人が助けられるということでなくて、神様が助けて、そのお手伝い、御用をなさっただけということになる。 問題にならないことを問題にしておる、信心があったらとこう思うけれども、信心がないから致し方がない。そこでそのためには、懇々と相手に合点の行かせられるだけの信心なのです。お話が出来なければならん、その内容はどこまでも、真の信心になったという信心のそこのところが出来ておらねばならん。そこにその人を使って、神様がその方を助けて下さる。
 人を助けるということは、神様が助けて下さるのであって、その橋渡しをさせて頂けれる御用のことであります。ここで「人を助けることは有難いことではないか」と。私が助けた、私が話してやったということになる。人の難儀が助けられる働きが出来れる。そこんところのおかげが頂けれるために、腕挫ぬいとっただけでは出来ん。
 ああ今日の御理解は、もう本当にどんなわからん者にも、今日の御理解を伝えたら、誰でもわかるじゃろうと、自分自身がまずそうわかって、それを本当に人に伝えられるだけの勉強せねば駄目。宗教革命の運動員にならせて頂きたい、そういう御用もさせて頂きたい、それを止むに止まれん思いで思い続ける。
 それで例えば、私が三十分なら三十分の話がです、そういう一生懸命の思いだったら、絶対、一言一句間違わんくらい、そのままお話の出来るような、おかげが頂けるはずです。絶対です。私でん、お説教の一時間位の話ならばです、ああこの話はと思うたら必ず覚えて帰ります。頭が大体良くないのですけど、やっぱり一念ですよ。
 その証拠に、例えば、役者の人達から俳優の人達は、そげん皆が皆頭の良い人はおりませんけども、それをもう憶えんならんと思うけん、あの長い科目を暗記してしまうでしょうが。兵隊に行った方達は体験がありましょうが、暗記ものが沢山ありまよね兵隊には、どんなに頭が悪かでちゃです、「さあ今日一日で憶えろ」と言われたら憶えましたよね。
 その位のね思いで御理解を頂かしてもらわねば、今日の御理解はどげな御理解じゃったかのと言うて、もう帰らにゃならん何にも残っとらん、その位のことでは人を助けることは出来ません。「人を助けてわれ助かれ」という生き方を、思い思わせて頂いておると、そのことに思い耽らせて頂いておると、これはまず私自身が助からねばならない。いや私自身がまずわからなければならない、と言う事になって来るのですよ。
 そこで「和賀心時代」とか「宗教革命」とかという言葉を使って、そのことはいろいろに説かれておる。成程本当に金光教も含めて、宗教革命がなされなければ、本当の金光教によって助かりも人が助かるということも出来んと、本当の助かりということにはならんとそこへ思い至らせて頂く。そのためには、その話を自分が頂かねばならん。それを頂いて思い込ませて頂かねばならん。その頂いて思い込ませて頂いた話をです、「こういう在り方になりゃ助かるはずですの」と人に話せれるものを頂かねばならん。そこから自分の助かりもあり、またそこから人が助かることの働きを表わすことも出来ると私は思うのです。
 昨日の十三日会の後に、小倉の富永さんがお届けをなさいましたのですけど、二・三日前に、品の良い若い男性の方が、訪ねて見えた。なんじゃろうかと思うたところが、「奥様は聖書を御覧になった事がありますか」と言う、「いえありません」と言うたら聖書を出して一生懸命話をされた。ところがその受け答えをされる具合が一寸普通と違うものですから、あなたも何か信仰をお持ちですかと言われたから、「私は金光教の信心させて頂いております」とこう言うた。
 「私は有難い親先生を頂いて、こうこう」と言うたら、今度はもう、次々と矢継ぎ早に尋問して来る、金光教のことを、最後に、「あなたがそげん頼っておられる親先生がころっと死になさったらどげんなるですか」と、もう言いようがなかったと言う、「本当に自分の勉強不足をしみじみ感じました」とお届けをして行かれました。
 どういうキリスト教の話でも、あの宗教革命の話を聞いておるならですよ、話を聞いておって、そこんところがキリスト教の欠けておるところでしょうが、ここんところをあなた方も頂かれなければ本当の世界。
 例えばあなた方が、それこそ専門にお導きをして歩いておる方になんです。あなた方が金光教で言われておるここんところをです、頂かれたら、もうむしろキリスト教を導きにみえた方に教えて上げられる位な、今の合楽では教えられているはずなのです、本当言うたら。
 なら一番最後に、「あなた達が一番信用しているという親先生が亡くなりなさったらどうしなさるですか」と。口が開かじゃったと。皆さんも、本当に自分自身に自問自答してから、そういう場に当たった時に、それこそ宗教革命のきっかけがそこに出来るのですから、私の話を聞いて下さい。ここのところがあなた方の信心がもう一ちょ素晴らしい、キリスト教という素晴らしい宗教である、でありますけれども、ここのところをもう一つ根本的なところにお聞き届けになりましたら、キリスト教がもっと生きて来ましょう。
 どうでしょうか、一ぺん私のところの教会にお出て頂いて、話を聞いて頂いて、例え来んでも良いから言えれるだけのものがあると思うのです。それが宗教革命になさせて頂くこと、けどお話一つ出来なかったんでは、言われて詰まるようなことでは出来ないでしょう。勉強不足なのです。
 それでは人を助けるということになりません。人を助けることの上には、まず自分が助からねばならん。まず助からねばならん第一という生き方と同時に、桂先生が日支先生におっしゃっとられる。ところの「人を助けてわれ助かれ」ということ。なら人を助けて、自分が助かりたい一心で、なら人を助けて回わるということでおけれると言う信心。程しの御神徳を身につけて行くことが出来る。
 ならそういう信心をです、身につけて行きます内容には、何と言うても、信心辛抱が肝心であり、腹を立てたら出来ることでも出来ない。甘木の親先生が教えておられることです。「腹を立てれば進むはずのものも進まない」と、六十年間の体験から、もうその一言を塚本先生は話しておられます。
 御教えを頂けば頂く程、神様を只漠然と信ずるからです。理屈の上でも、理論の上でも、本当にこの神様の御働きを頂かなければ立ち行かないことがわかって参ります。それを自分の心で頂き、自分の心で、わからして頂いて、いよいよ手厚い信心が出来る。信心がこよない楽しいものになって来る。そういう私は生活を本当の意味において信心生活だと思うです。どうぞ。